海外文学

ファウスト| ゲーテ【悪魔じみた人間と人間じみた悪魔】


人間味のある悪魔と悪魔じみた人間

詩人ゲーテが六十年という狂気じみた時間をかけた大作ファウストは、

悪魔に魂を売った男の壮大な冒険譚である。

新潮版の表紙のカルトなグラフィックが描いているのは、

悪魔メフィストフェレスのイメージだろう。

なんとも不気味なタッチだが、読んでみたら

悪魔メフィストフェレス想像していたよりはるかに饒舌で、はるかに献身的で、はるかに世族的で、

しかも人間の姿をしていたのには肩透かしを食らった。

全世界をなめまわす文化というやつが、悪魔の上にも及んだのさ、蹄だって、なくちゃ勝手が悪いんだが人前で見せる訳には行かなくなったのだ。

悪魔メフィストフェレスはとても人間味にあふれた登場人物だと思う。

皮肉をもらしたり、止む無く蹄をかくして人間界に駐在したり、宴を楽しんだり。

あなたはもうかなり悪魔じみてきているが、
何が没趣味だといって、絶望している悪魔ほど没趣味なものはまずありますまい

禁断の若さを手にしたファウストの方がよっぽど悪魔じみている

メフィストフェレスがつぶやくところからもわかる。

悪魔と死神の違い/メフィストフェレスと死神リューク

人間的悪魔像、悪魔的人間像を描く本作のストーリー展開は、

無論今日においてもよく見られる

「デスノート」世代の僕としては、

夜神月に付き従う陽気な死神リュークを思い出さざるを得ないし、

真面目だがどこか天然な感性をもつ死神による人間の死の観察編

伊坂幸太郎の「死神の精度」もその筆頭だろうか。

いや、というか、彼らは死神で、メフィストフェレスは悪魔である。

そもそもこの二つの立場とはどのように違うのだろうか?

そそのかす悪魔、中立の死神

悪いことをしたとき、「悪魔がささやいた」という。

つまりは悪魔の所為であり、自分の過ちではないと。

キリスト教を始めとした各国一神教では、

醜悪で様々な悪魔像が描かれている。

これは唯一神教信仰を拡大する上で、必要なものであったのかもしれない。

悪魔は読んで時のごとく悪い行いのことなのだ。

対して死神とは、神話における死の比喩=アレゴリーだ。

だから我々が死んだ後の骸骨の姿をしているし、

あくまで死の寓意なので、僕たちを陥れたりすることはない。

要約するとこうなる。

悪魔は悪魔。死神は中立。

本作で明らかだが、

悪魔メフィストフェレスは、ファウストをそれはもうそそのかす

対して

死神の精度」の死神も、「デスノート」の死神リュークも

彼らはいたって中立である。

使い走りを働くことも、利用されることもあるが、

人を陥れたりはしない。

ワルプルギスの夜とヒトラー

シェイクスピアの真夏の夜の夢をもじったことの魔女による酒池肉林の狂宴。

均衡をたもってきた物語もこのあたりから夢のようで、幻想的なキャラクターが

登場し始める。

独断論者、観念論者、実在論者、超自然主義者、道具主任、北国の画家、前「時代精神

と、いきなり湧いて出てきたが、

脚注を読むとこれらの登場人物のなかにはゲーテの当時の人間関係や文壇の連中を登場させているのだとか 。

それもそのはず、彼らの語り口にはゲーテへの批判や、

当時の時代性への愚痴にあふれてている。

何ぴとが穏健にして分別ある内容を持った著作を読まんとするだろうか

それから現代の青年どもについて言うならば、

これほど小生意気な奴らがこれまでいたであろうか。

こんなことは現代でもきくぐらいなので、世の中というのは本当に根本的には代わってないのだなあとしみじみ。

ちなみに4月30日〜5月1日に行われるこのお祭りは

中欧北欧で依然として行われるお祭りだそうだが、

実は悪魔崇拝であったヒトラーやナチス幹部の自決の日もこの日だったのだとか。

と、なんともカルトな予備知識を与えてくれた本書。

第二巻のレビューではファウストの人生とも重ねわせながら振り返って行こうと思う。

第二巻


ハッピーエンド版ファウスト

挿絵というか、裏に書いてあるあらすじの時点でネタバレなのだが、

ゲーテ版ファウストはいわゆるハッピーエンドだ。

堕落したり、地獄へと連れらされるファウスト像は史実において多く描かれているが、

ゲーテ版ファウストにおけるファウストは、努力を怠らない人間への救済として読むことができる。

ゲーテの人生に導かれたファウスト

ゲーテ編のファウストは

ゲーテの自身の人生を投影することによって完成させられた

それまでのファウストを覆す壮大なリヴァイヴァルだと思う。

1巻の巻末解説や各書に記されたゲーテの人生を簡単にまとめる。

  • 1749年8月28日生まれ
  • 1763年 14歳でグレートヒェンという年上女性に恋 
  • 1765年ライプツィ匕大学法学部に入学も、早々に病に倒れる。
  • 母の友人より、汎神論的宗教感情の手ほどきを受け、信仰から遠ざかる
  • 復学し、法律得業士となるも、商売不熱心で詩や散文をつくる。
  • 1772年 赴任した田舎町でシャルロッテと出会い恋におちるも婚約の身と知り帰国。
  • 1774年 若きウェルテルの悩みを出版。ファウストに着手
  • 1775年 ワイマル公国に移住。アウグスト君主の教育と行政事務、鉱山管理。
  • 1786年 イタリアへの遁走
  • 1799年 友人シラーに促されファウスト執筆再開
  • 1806年 20年来の内縁の妻クリスティアーネと正式に結婚。
  • 1809年 19歳の少女に結婚を申し込むも拒絶(当時73歳)これを元に「マリーエンバート」の悲歌をつくる。
  • 1830年 ファウスト第二巻完成
  • 1832年3月22日 病により死去

これを見ると執筆当初信仰深くなかったゲーテによって

いきいきと描かれた悪魔メフィストフェレスや、

ファウストが愛したグレートヒェン、

二巻から始まる皇帝に仕えるシーンなんかは

まさに彼の人生から作られたものなのだろうと思う。

この物語の結びが初恋のグレートヒェンによる救済によって

幕がとじられたことに、僕は大変な幸福感を覚えた。

反転する善悪を超えて

ローマ帝国の衰退や世界一と唱われたナウル共和国の没落は、

力や富に溺れる人間は群れ、結託し、堕落することを伝えている。

これをゲーテ版ファウスト以外のファウスト創作について

当てはめて解釈することは容易だろう。

しかし本作はそんな結末とはなっていない。

更に悪魔メフィストフェレスの視点にたてば、この物語は壮大な悲劇となる。

勢力も、力も上の天使達に自分が永年眼をかけていた魂を奪われるし、

あれだけ業の限りをつくしたファウストは天国へと登るのだ。

こうなるとどっちが正義でどっちが悪なのかはわからない

ファウスト伝説の教訓とその善悪の構図さえひっくり返してまで

ゲーテが伝えたかったこととはなんなのだろうか。

行動主義者ファウストの名言

戯曲形式で描かれた本作は、主に登場人物の会話文で進行していくので、

本書は読んでいて目からウロコの名言の目白押しであった。

二百年前のマスターピースに向かう態度として正しいとは言い兼ねるかもしれないが、僕は現代の利器スマホを片手にそれはもうメモをとりまくった。

「時よとまれ。お前は美しい」とはファウストが遺した有名なことばだが、

他にもファウストが遺したことばをここに挙げておく。

「太初(はじめ)に行いありき」

行為がすべてだ、名声などなんの値打ちがある。

人間はどんな瞬間にも満足してはいられないのだ。

現在こそ、宝、利益、財産、抵当物です。

上記からもわかるとおりファウストは自分の望むもののために絶えず動くことをやめなかった。これを、貪欲であると切り捨てるには発展がないとゲーテ氏は考えたのかもしれない。

特に好きなのが聖書の一節である「はじめに言葉ありき」にしっくりこなかったファウストが「はじめに行いありき」とドイツ語で訳し直すシーンだ。

ファウストの勇気あふれることばの数々から、

この作品においてゲーテが伝えたかったことが見てくるかもしれない。

このニヒルな知の行動主義者ファウスト=「学びをやめない開拓精神」の姿勢

こそ彼が世に遺したかった教訓なのだと。

【まとめ】古典を読むこと=巨人の肩に乗ること

「巨人の肩に乗る」ということばを最近本で知った。

巨人の肩にのって遠くをみるように、

先人の発見に基づいて何かを発見するという意味だったと思う。

本書が古典なのか、そもそも何かの発見のための触媒書なのかということは

さておき「巨人の肩に乗る」姿勢で手にとったのがゲーテ版ファウストだった。

しかしながら神話に疎い僕は、作中に出てくる

様々な神々の深遠なやりとりや引用にはほとんどついていけなかった。

スマホで調べながら読んだり書いたりしながら

理解したファウストだったと言える。

こんなことではゲーテの向こう脛くらいの地点にしかよじ登れていないだろう

それでも、二百年前に書かれたこの作品が、日本のゆとり世代で育った

僕のようななまぬるい中年の胸さえおおきく揺さぶったという事実が、

巨人の向こう脛に登って眺る景色にも大きな発見を与えてくれることを学んだ。

書評も早々に、次なる巨人の肩に乗ることを目指そうと思う。

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