海外文学

私の体に悪魔がいる/ピエール・サタン 書評


女とあやつり人形

「私の体に悪魔がいる。」という題名からして

スピリチュアルなストーリーを想像していた。

しかし、読んでみると、内容としては、小悪魔女に振り回される哀れな中年男の話だった。

物語の舞台はスペインであるが、作者はフランス文学。

原題をそのまま訳せば『女とあやつり人形』となるそうで、書いてそのままのお話。

僕は、今までにこんなに美しい彼女をみたことはない、彼女の眼とか指とかそういうことではない。彼女の身体全体が顔のように、いや顔以上にものを言っているのだ。

物語は主人公である僕=マテオの一人称で進んでいくが、

ご覧の通り、彼の頭中は一面御花畑。

マテオが夢中になるのはコンチャという美少女で、まああの手この手でマテオを翻弄していく。

私は私のものよ。私は私を守っているわ。私には、私よりも尊いものなんか何もないのよ、

セルフパートナーという言葉で話題になったエマ・ワトソンを彷彿とさせるなと感じたのは僕だけだろうか。

コンチャがマテオのことを愛しているのか、愛していないのか、

なんていう問いを読者である僕たちがせっせと積みあげたって、

コンチャは何度となく拒絶と誘惑を繰り返しマテオと僕たちを散々にたぶらかし続ける。

そもそも「私の体に悪魔がいる。」というのは、私自身は悪魔ではないけど、

悪魔らしい何かが私をそうさせているという、信じたくない自己への遠い自覚を表している。

ふと、この構図に谷崎潤一郎の『痴人の愛』を思い出した。


こちらも年老いた男と若い女の不釣り合いな恋の話の代表格だろう。

谷崎先生には陰翳礼讃で建築家として、日本建築の、そして影の美学を叩き込まれたものだ。

しかしながら wikiを調べると陰翳礼讃執筆前はばりばりの西洋屋敷にすんでいたそう。笑

映画

映画版は『 欲望のあいまいな対象
そして監督は偶然にもぼくの大好きなルイス・ブニュエル。 


少し逸れるが、合理的解釈の否定をテーマにした彼の映画が僕は大好きだ。

峠を越すバスに乗ったものの邪魔立てがはいってなかなか峠を越せない『昇天峠』

終わらないシュールな晩餐会を描いた『黄金時代』

カフカの城的な、不条理な世界観を呈した作品のオンパレードである。

ミヒャエル・ハネケなどの主題とも近しいだろうか。

マテオと近代という時代

話が逸れたが、本書に付随した解説にも唸ってしまった。 

解説にて著者は、一体なぜ、マテオのようないい年をした男が

原題のようなあやつり人形になったのかという理由についてこう考察している。

肉感性を知的発展の具とする能力をかいていて、つねに卑怯な態度をとったからである。

更に、彼は、これこそが近代人の誤りなのだとしている。

マテオは近代人の誤りの象徴だといっているのだ。

ここで建築を例にとってみたい。

建築の世界における近代という時代は、コンクリートやガラスや鉄によって

今の私達が住み暮らしているいわゆる四角い箱=コンクリート造の礎を気づいたゴールデンエイジだった。

フランク・ロイド・ライトもコルビュジェもミースもみなコンクリートや鉄骨で建築をつくった。

それは今の時代でも変わっていない。近代という時代は偉大で、

その恩恵を今日もなお僕たちは受け続けているのだ。

しかし、近代という時代は見栄の時代であったとも言える。

安く、早く、真っ白な機械のような、およそ人の住処から遠いハコを作り上げて、

ピロティをもってしてそれまで大地と分かちがたく結びついていた建築を浮かべてみせたのだ。

(実際には浮かんでいないのだけれども)

安く、早く、合理的に、という資本主義のロジックによって即興で無理矢理に組み立てられ、

近代的な見栄によって固められてできあがったのだと言える。

ここで話をマテオに戻す。

解説で、なぜマテオが近代の誤りなのかと言われた理由はここにある。

要はマテオは見栄っ張りで、利己主義な、近代という時代をあらわしているのだ。

コンチャと寝たいという圧倒的欲望の元に、年甲斐もなく自分をかなぐり捨てる。

コンチャと一緒になりたいという欲求のために、どこまでも利己的なれる機械なのだ。

彼にとっての絶対的目的であるコンチャに、ふられてはまた寄ってこられてを繰り返される彼のことを思うと、

ボタンを押しすぎて、壊れてしまった機械を見ているような、

愉快な気持ちと少し末恐ろしい気持ちがするのだ。

合理的目的のために先鋭化された機械が、目的を失うことの矛盾は、

こうもぼくたちを不安にさせるのだ。

マテオのような人物や今の世の中には大勢いますし、

異性をおっかけまわすドラマは現代ドラマの一つの潮流でもある。

良くも悪くも局所的には近代という時代は未だに続いているのであり、

僕たちは未だに芸術においても近代という時代の構図をひきづっているのだと感じた。

最後に著者は近代という時代で唯一の功績についてこう語っている。

タバコを発見したこと以外には近代人にはなんの取得もない、と。

機械によって投影される映画という近代芸術に、

合理性とは無縁のタバコという程よい油が必要だったことを彼は指摘しているのかもしれない。

ちなみに僕は一昨年、禁煙に成功し、近代という時代を乗り越えることができました。


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