ハリネズミと狐 / 頑固か柔軟か
「キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている。」
古代ギリシャの詩人アルキロコスの詩の引用から始まる本書は、
ロシアの文豪トルストイがキツネか、ハリネズミか、一体どっちなのかについて
考察する。
キツネとは、多元論、多様な要素の複合、複数のヴィジョンに基づき思考する。
作中ではヘロドトス、アリストテレス、モンテーニュ、エラスムス、モリエール、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイスが挙げられている。
対してハリネズミとは一元論、1つの実質、単一の明快なヴィジョンに基づき思考する。ダンテ、プラトン、ルクレティウス、パスカル、ヘーゲル、ドストエフスキー、ニーチェ、イプセン、プルーストを挙げている。
ここから現代のビジネス書などでは
キツネを柔軟性はあるが、一貫性がない。
ハリネズミを頑固で一貫性はあるが、柔軟性に欠ける。
という2つのタイプの明快な分類を与える。
ハリネズミの衣を借りたキツネとしてのトルストイ
著者はトルストイの戦争と平和に対するツルゲーネフの辛辣な批判を皮切りに、
ハリネズミの衣を借りたキツネ像について考察する。
戦争と平和に散在する歴史学的、哲学的な文章を、ひどく乱暴に物語を中断するばかりか、この偉大ではあろうが、自惚れの強すぎる作家独特の、なんでもないところで脱線するという嘆かわしい癖
ツルゲーネフはトルストイの人柄と作品は批判するも、
登場人物の心理の動きを微細に、明快に描く技術。その芸術的才能は認めたそうだ。
「トルストイは本来は狐であったが、自分はハリネズミであると信じていた。」である。理由は自由のないロシアで、一切の拘束を一掃できるような強い一元主義への情景からだというところに落ち着いていた。
井の中のキツネタイプ
こんな議論は所詮は二項対立による限られた見方でしかないという意見は最もだろう。
しかし本書を読めば、自分は一体どちらであのひとはどちらだ
ということを考えずにはいられない。
ネット上で莫大な情報量が飛び交う現代においては、
浅く、広く、労力なく自分に都合のいい情報だけを集めた
井の中のキツネタイプの人間が多いことだろうと考える。
なぜなら僕もその予備軍ないしは既にそのうちの一人だと思うからだ。
柔軟性には乏しかろうが、
自分の中の圧倒的にやりたいことで突き抜けられるハリネズミの姿を追う
トルストイの気持ちがぼくにもわかる気がした。